Do the right thing

邦画はそこそこ見るものの洋画は苦手だ。意図的に鎖国しているわたしは文化を分かち合えないためか。とにかく好んでは見ることは少ない。そんななかで生真面目なラッパ我リヤファンなので、『Do the right thing』を見た。オバマ前大統領が夫人との初デートの際に見たという、1989年公開の映画だ。

 

『Do the right thing』に出てくる主要人物はどこかしら難を抱えている。

仕事が続かずに妹に養ってもらい妻子を放置するムーキー、無意識裏に人種差別を行う傍ら「ゴロツキ」の面倒を見るサル、大音量で音楽を流すラジオ・ラヒーム、「黒人である」という強固なアイデンティティを持つバギン・アウト。メイヤー、ビト、スマイリー、無職の三人組……と枚挙に暇がない。

洋画と同じようにポリティカル・コレクト的なものはどうも苦手だし、黒人差別反対!男女差別反対!というような動きもなんだかついていけない。これはおそらく自分に経験がないためなのであろう。普遍化された話題を私自身の体験に落とし込んで対象化するという方法でしか芸術に触れられないわたしは、理解を超えるものをどうしても避けてしまうのだ。それでもこの作品を面白いと感じたのは、癖のある登場人物たちが悔しいほどに人間味を帯びているからだ。

黒人差別を肯定する気も否定する気もない。わたしにはそれを語る知識も経験も考えもない。差別がいいことでないのなんて分かっているけれど、そしてそんな素振りは見せないようにしているけれど、自分の無意識なところで気づかずに差別行為をしているのかもしれないのだ。わたしも自己投影することができそうな、「普通の人間」を表したかのようなサル。彼は黒人ではない「白人」であるもののイタリアに強い思いを抱くブルックリンのマイノリティだ。黒のタンクトップ、白のタンクトップを着るサルの息子たちは「黒人」「移民」であることにアイデンティティを求めない「普通」のアメリカ国民だ。しかし彼らは彼らで自分の人生に悩み、特に兄ビトはいずれ足枷になると思われる店ーーつまり「イタリア」との繋がりを断ち切ろうとしている。

白人を悪く、黒人をよく見せるのではなく一人ひとりの人間が持ち合わせる「LOVE」「HATE」を的確に描いているこの映画を紋切り型の「黒人差別」を扱う作品として語るのはあまりにも情けない。

メイヤーは仕事に精を出さないムーキーに見兼ねて「Do the right thing」と声をかけるのだろうか。ムーキーは親友ラジオ・ラヒームを失った悲しみからドラム缶を投げるという「right thing」を行うのだろうか。25年間ブルックリンの市民に愛されるピザを作り、一人の手で店を作り上げたサルの行為は「right thing」か。自らの権力への姿勢を誇示するかのようなラジオ・ラヒームのラジオの音量は「right thing」か。暴動を目の当たりにして自らの身を守ろうとする韓国人。労働の対価とは思えないような金を使い女に花を送る行為。印刷物を2ドルで売りつける行為。女をセックスの対象としか捉えない視線。暴力を肯定するマルコムX……

画一的な「正義」は存在しない、というような手垢にまみれたことを言いたい訳ではない。差別という行為も人間の間で発生するのだ。そして、その人間はちょうどラジオ・ラヒームのアクセサリーのように「LOVE」と「HATE」持ち合わせ、右手と左手を用いるように順番に繰り出すのだ。

 

なんて、結局手垢にまみれた感想になってしまうな。