ムルナウ『最後の人』-ドアの話

澤登翠活弁付きでムルナウ『最後の人』を見た。語りも台本も澤登翠。彼女の活弁を初めて見たのは去年の夏のことだ。演目はエルンスト・ルビッチ『思ひ出』だった。ルビッチが小津安二郎に与えた影響を説明するなかで、「小津安二郎監督さん」「小津監督さん」と小津にだけ特別な敬意を表していたのが印象的で、彼女自身の映画に対する姿勢が滲み出るような柔らかな語り口がとても快かったのを覚えている。澤登さん以外の弁士の方も含めて活弁付きの上映は数える程度にしか聞いたことがないわたしは、技術や内容の良し悪しを判断できるほど知識もない。しかし、今日見た『最後の人』に関しては間違いなく澤登翠活弁付きで鑑賞して良かったと思える。


ムルナウ『最後の人』は1924年に製作されたサイレント映画である。澤登さんの説明によれば、アメリカ向けにするために当初構想されたものから修正されたらしい。労働者階級の苦しみ、富や権威を憎み同時に執着する人々の醜さ、そして老いという多くのテーマを内包した作品であるが、ムルナウ独特のユーモアで演出されているためかエピソードとしてはそれほど複雑なものではないように感じる。

全編に渡ってほとんど字幕がないサイレント映画である本作は極めて寓話性の強い作品である。(街にも登場人物にも名前が与えられず、唯一名前が付けられるホテルに至っても「ATLANTIC」というスケールの大きさだ。)カメラの眼によって切り取られるストーリーは主人公の纏う「制服」を中心に進んでいく。しかし今回目に留まったのはドアの表象であった。


この作品の中ではおもに主人公の勤務先である「ホテル」、主人公の住まいである「アパート」の二つの建物が登場する。そして、限られたセットの中であるからこそ「ドア」の意味するところが明確となりその作用が強調される。

労働者階級に縛られた主人公はホテルの回転ドアの前でポーターを務め、ホテル屋内に入ることはほとんどない。彼の仕事場にあるガラス製の回転ドアは開戸と比べて「隔絶」の感を与えないように見える。しかしながら確かに存在し、屋内外を明確に分ける。当然中と外が混ざることはない。彼は労働者階級に暮らしながら、その地域では類を見ないような金ボタン・金モールのついた立派な制服を身に纏って「まるで将軍のような」扱いを受けている。しかし彼の暮らしぶりは階級の外に出ることはない。印象的な回転ドアは彼の境遇を端的に示す装置になっている。


ほかにも、彼の新しい仕事場である「洗面所」が地下にあり、そこに至るには何重かのドアが構えられている点もシンプルかつ効果的な仕掛けに思える。彼の心理的な運動を暗示するだけでなく、地上/地下へ向かうエミール・ヤニングスの所作が素晴らしい。

家の中のシーンでは家庭を仕切る「ドア」の作用を効果的にもちいて、近い距離に暮らす人々や家族との心理的な隔たりを示している。姪の家の呼び鈴を押すことができずに戸惑う主人公の葛藤、呼び鈴を押す悲哀な姿、噂話に聞き耳を立てる近隣住民の卑しい姿……いくつもの卓抜したカットはドアという装置があるからこそ機能したものである。

もちろんカメラワークも素晴らしい。冒頭の降下するエレベーターからホテル内を撮るシーン、主人公の夢のシーンと優れた箇所を挙げると暇がない。


澤登翠ムルナウのユーモアを理解し、この悲劇とも喜劇とも言えない『最後の人』を語った。彼女の適切な解釈と豊かな表現がムルナウの演出と一致して、作品をより深いものに仕立てていたように思う。

同時に、もし初めて見る『サンライズ』が活弁付きの回だったらわたしはムルナウをどのように受け止めたのだろうかとも考えてしまう。サイレント映画として作られた作品をサイレント映画として受容することの意味と、活弁という新たな手を加えて受容することとの違いはどのようなものなのだろうか。

いずれにしても、サイレント映画は映画館で見るに限る。