ブニュエル『皆殺しの天使』-羊の話(考察)

ブニュエル『皆殺しの天使』を見た。

洋画偏差値2のわたしは超名作を見たこともなければ監督や俳優の名前すらあまり知らない。それでもブニュエルという名前は聞いたことがある。『皆殺しの天使』に興味を持ったのは「部屋から出られない」状況を描いた作品だと知ったためだ。


オペラのあと晩餐会に招かれた総勢20名のブルジョアジーたちが屋敷に着くなり、使用人たちは屋敷から逃げ出してしまう。その原因は使用人自身にも周囲の者にも誰にも分からない。ただ、自分の意思に従い執事以外の全員が屋敷を去って行く。

ブルジョアジーは夕食を済ませるがなぜか誰も帰宅しない。翌朝になっても誰も帰宅しない。そのうち部屋から出られないことに気がつく。

どれほどの時間が経過したのかも分からないような長い間、当主を含めて全員が一つの部屋に閉じこもる。当然諍いが起こり、人々は絶望を抱き、病を患う。なかには死を選ぶ者さえ出る。

きちんと説明がつくようなつかないような事態が起こったあとに、一同は部屋からの脱出に成功する。神へ感謝を捧げる荘厳なミサのあと、今度はチャペルから出られなくなってしまう……。かなり乱暴ではあるが、以上が粗筋である。

不条理作品として有名な本作であるが、基本的に一貫した「宗教」批判が根底にある。

まず、ブルジョアジー達は何らかの思想や宗教、団体に所属していることを強調される。ある人はカトリックであり、またある人はフリーメーソンであり、カバラユダヤ神秘思想というものらしい)の儀式を行う者もいる。そして全員が「ブルジョアジー」という階級への帰属を強烈に意識し、自分の、そしてお互いの振る舞いを律している。

一方で使用人を始めとするブルジョアジー「以外」の人々に対してこのような表象は少ない。(例外を二つ挙げるとすれば使用人の中で唯一屋敷に残った執事は空腹を紛らわすために紙を食べながらかつてイエズス会で学んだことを話し、ブルジョアジー夫婦の子供の世話をする役目を与えられた神父は「偽善者」「色目を使う」とその職務を全うしていないことを批判される。)

本作のなかで「外に出られない」試練を与えられ苦悩するのは何らかの思想的アイデンティティを有したブルジョアジーのみである。複雑な本作の中でも広義の「宗教」批判の姿勢は明確なのではないか。


その批判姿勢は熊や羊といった動物が登場する場面にも明らかである。

キリスト教を例にとってみれば、羊とは明らかにキリスト教徒のことを指す。(聖書の中でキリスト教徒は羊、イエス・キリストは羊を導く羊飼いに例えられる。)

作中、屋敷の羊達は自ら部屋のなかに入り、ブルジョアジー達の食糧となる。また最後のミサのあとにも羊達はどこからともなく群れをなして現れて、教会の中へと入っていく。屋敷の中の展開を見た観客からすればその後の羊の運命は明らかである。イエス・キリストが羊飼いなのであるとすれば羊達が教会に向かわないよう誘導することは当然可能なはずである。

キリスト教の象徴である教会に、まさに「死」のために突進していく羊達の群れの姿は本作の痛烈な宗教批判を思わせる。


この作品のなかで「繰り返し」という用法が持つ意味合いについて今さら取り上げるまでもないとも思うが、一つ印象的な場面があった。物語の序盤、ブルジョアジーの一行が屋敷に到着すると同時に二人の女中が屋敷を出ていく場面である。ここでは立て続けに同じ場面が二度繰り返され、女中たちは一度目は脱出に失敗、二度目でようやく屋敷の外に出ることに成功する。

この場面では自分の意思に従って行動する女中たちが自分の手で運命を変えていることを示しているのではないか。


「不条理」「シュールレアリスム」の名手として知られるブニュエルの作品を初めて見たが、非常に明確かつ端的な形式で物語序盤に作品の根幹となる姿勢を提示しているように思えた。