祖父を恋ふる記

今週のお題「眠れないときにすること」

 

わたしが生まれた町には大きな大学がある。大学の植物園は一般人も立ち入ることが可能で、小さい頃はよく親にねだって連れて行ってもらった。今も植物を育てるのが好きだけれど、いま思えば昔から好きだったのだろう。しかし幼いわたしには植物園のなかで唯一怖い場所があった。温室である。温室のなかにはプールのように水を張った一角があって、熱帯に生息する植物を展示していた。わたしはそのプールの夢をよく見た。現実には魚も生き物もいないのに、夢の中では鮫が泳いでいた。鮫に怯えて歩いていると、わたしはプールに落ちる。大抵そこで目が覚める。鮫のいるプールに落ちるイメージはわたしにまとわりついて、大人になったいまでもときどき同じ夢を見ることがある。

幼いころは長らくこの夢に悩まされた。怖くて眠れない夜があった。そんなとき、幼稚園の先生はわたしに眠る前に枕に「たのしいゆめ」と書いてから寝るように、と教えた。あれから今日までこんな方法でこわいゆめに立ち向かうだなんて聞いたことがない。人前に立つときに「人」の文字を掌に書いて飲み込むあの迷信のように枕元に「たのしいゆめ」と書くとでもいうのか。幼いながらに半信半疑のまま「たのしいゆめ」の文字を書いた。幼稚園児が正しく平仮名を書くことができたのか今となっては定かではない。しかし、素直に従った。

それから数十年後、ふとした話の綾で母と「たのしいゆめ」の話になった。曰くこの方法は祖父が編み出したものだという。祖父から教わった母が幼稚園の先生に同じ方法を伝えたことでわたしの耳に入ったようだ。聞いたこともないこの独特の手立ては祖父が一人で編み出した祖父の優しさの結晶だったのであろう。

祖父は穏和で優しくいつも笑顔を絶やさない人であった。あった、と過去形にするのは彼が歳を重ね感情を示すことが乏しくなってきたためだ。若輩のわたしは身内の死に向き合ったことがない。いまは健康な祖父母がいついなくなってしまうかと思うと夜も眠れない気持ちになる。

怖い夢に怯えて眠れない夜を乗り越える方法を教えてくれた祖父はいまわたしに人の死を教えてくれようとしているのかもしれない。人はいつか死ぬなんて何十年も前から知っていることなのに、わたしはそれに立ち向かうことが怖い。怖くて仕方がない。同じ場所で暮らしているわけではないから、数ヶ月または数年の間隔を空けて会う度に変化していく彼の認知を受け入れるということが難しかった。それでも最近は少しずつ乗り越えられてきたように思う。かと思えばおもいが溢れて泣いてしまうこともある。まだ元気な祖父母を前にして泣いてしまうなんて、我ながらばかばかしい。しかし本当に悲しくて我慢できない。

先日数年ぶりに母と祖父母と外出した。お彼岸の墓参りである。よく晴れて秋らしくない暑さの日だった。この日のことをわたしはずっと忘れないだろうと思いながら、祖父母の横顔を眺めた。